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『あの人も渋高だった―』No.8 古澤 融さん(声優・舞台俳優)

☆先輩。後輩、ご同輩の皆さま、昭和56(1981)年卒業の古澤融と申します。よろしくお願いいたします。

《萩原朔太郎「月に吠える」全文朗読 世田谷区響同ホール 2020年10月24日》

〇左から、娘・華、青年座の中野亮輔君、融、華の夫・亮

 

 

Q1先ず、古澤さんの出身地・育成地等について教えてください。

《おそらく小学校低学年。東電の社宅にて。左から融、母・千寿子、兄・一郎》

 

 

 

 

 前橋市岩神町四丁目にあった、東京電力の社宅で生まれ、中学二年まで住んでいました。中学二年のとき、前橋の北の際にある芳賀に住宅地が造成され、高花台という団地となり、そこへ両親が家を建てて引っ越しました。近所には、なんと、高2までお世話になった水穴校長先生が住んでおられました。

 幼いころは超内向的で、誰もいない公園でずっとドングリを拾っているような子でした。父方の祖母からは、「真っ白な顔をして大人しい女の子みたいな子」と言われました。実際、なにか、この世界に対する恐れみたいなものが拭えない感が今でもあります。困ったものです。

 小学校は社宅の隣にあった岩神小学校で、朝起きて10分後には教室にいることが出来るという、ものぐさな僕にとっては最高の学校でした。取り立てて何かがあるという子ではなかったのですが、足だけは速かったです。手前みそもいいとこですが、渋高でもクラスで短距離だけは一番でした――マラソン大会は最初から歩いていましたが。

 中学は前橋第三中学校です。伸び伸びと過ごした小学校とは打って変わって、とても管理教育が強化された時代でしたから、登校するのがいやでいやで、それに、少し髪を長くしてましたから、頭髪検査がある朝礼の時は、校舎の裏にいて、朝礼が終わると集団に紛れて教室へ入るなんて、面倒くさいこともやっていました。内申書を盾に権力を行使する教師が結構いて、おまけに、くつ下にワンポイントがあってもダメみたいな校則もあって、地獄のような学校生活でした。卒業できたのは、「不登校」という発想がなかったからでしたね。

Q2渋高時代で、思い出、印象に残る出来事はどんなことでしたか?

《思い出の写真。卒業間近、パーマ解禁。で、おばさんになってしまい、へこみました》

 

 

 今もあるんですかね? 入学式の時に先輩方を前に正座させられて、学校と先輩に対する絶対服従を誓わされる儀式。あれ本当に怖かったです。が、立場が逆転した二年と三年のときは本当に楽しかったです。あの儀式はいいですね。上下関係の秩序や仲間意識が高まって、「俺はしぶたかなんだ!」という矜持が持てました。あと、何かというと万歳三唱と校歌斉唱をやるのも好きでした。前述の水穴校長が音頭を取る万歳三唱は特に気合が入って、清々しい気持ちになりました。

 水穴先生と言えば、一年生の時、バスが毎日一緒だったんです。五時すぎの始発で二人きりです。学校でのキリっとした佇まいとは違い、気さくに話しかけてくださいました。
ある日のことです。途中から大勢の学生が乗ってくるのですが、その日は、女子学生たちが異常に盛り上がってしまい、周りの人が迷惑そうでした。そのとき水穴先生が、「静かにしたまえ!」と一喝。その凛とした声に車内は静まり返りました。先生は続けて、「私は渋高校長の水穴である。文句のある者は渋高に来なさい」と仰いました。皆、畏まっていましたね。かっこいい大人で思い浮かぶのは、今でも水穴校長先生です。尊敬できる大人と出会えた僥倖を渋高が与えてくれました。それは一生の宝です。

まだまだいっぱいあるのですが、小説になってしまいそうですので、このあたりで。

Q3俳優・声優(ナレーター)になられた経緯はどうだったのでしょうか?

 渋高の三年間は、演劇三昧で、教室にも行かず(もちろん、授業のときは行ってましたが)、当時あった旧校舎の一番端にあった演劇部の部室に一日入りびたり、チェーホフを読んだり、コントを書いたり、セリフの練習をしたりしてました。家庭環境が不安定だったこともあり、部室が家状態でしたね。で、両親の不和もあり、勉強にも身が入らず、ですが――今は分かりませんが――渋高生はほとんどが進学でしたし、父も「とりあえず大学へ行きなさい」、ということで、一年浪人して明治大学の政経政治へ進学しました。とにかく「両親から離れたい」がテーマの進学でしたから、ぽっかりと穴が開いたようになってしまい、勉強する気が起きません。気を取り直して、明大の「演劇研究会」へ入会の手続きに行ったときのこと。ドアがすーっと開いて、顔色の悪い部員が顔を出し、「君、ここへは入らないほうがいい。やめたまえ」と言われ、すっかりビビッてしまい、あれほど入りたかった明大の劇研に入るのをやめてしまいました。あの時入っていたらどうなっていたんだろう? とよく考えますね。大先輩・唐十郎さんの状況劇場にでも入って、根津甚八さんを「先輩」と呼んでいたかもしれません。

 劇研を諦めた僕は、アングラ系の劇研とは真逆の所謂、新劇系の劇団青年座の研究所に入所します、そのあと、という劇団の研究所へ通い(アナウンサーの福沢朗と同期です。また、ここで、妻・梓と出会いました。それだけで、通った価値はありました。)、また青年座の研究所へ戻りと、俳優の専門教育を三年半受けました。当然、大学はフェードアウトです。ところが、卒業公演でいい役を貰いながら青年座には採用されず、傷心を抱いたまま、劇団仲間という、所謂、俳優座衛星劇団に入団しました。研究所では名作ばかり上演していたのが子供向けの作品ばかりを上演するようになり、どんどん鬱積していきました。そろそろ限界、というときに、青年座研究所時代の恩師、高木とおる先生が演劇集団を立ち上げるという話を聞き、妻と二人、無理やり押しかけました。そして、劇団「クロニクル」を旗揚げします。クロニクルでは期待通り、前衛かつ文学の薫りが匂う名作ばかりを上演できたのですが、困ったのは生活です。稽古と上演ばかりでアルバイトをする時間すら取れません。なんとか、青年座の俳優ばかりがアルバイトをしている清水建設の下請けの会社に潜り込み、お互いに、稽古があるときにはこっそりと早抜けさせるというグッドな(会社からしたらたまったものじゃないですが)バイトにありついたのですが、その現場で足場から落下、右足の前十字靭帯を断裂、半月板損傷という重傷を負ってしまいます。娘を授かったタイミングでしたからすっかり焦ってしまいましたが、青年座の俳優で親友のだんともゆき(これからの青年座を背負って立つことを期待された逸材でしたが、心臓の病で早世しました)が、「最近、声優という割のいいバイトを始めたんだ」と言ってたのを思い出し、彼に泣きついて、プロダクションバオバブの、たてかべ和也さん(初代ジャイアン 故人)を紹介してもらいました。下北沢のスズナリという劇場で僕の芝居を観てくださった、たてかべさんは、「芝居は出来るようだから、まあいいだろう」と、弟子にしてくださいました。こうして、声優・古澤融が誕生したわけです。声優になった途端にオーディションに受かり、「勇者警察ジェイデッカー」で主役デビューを果たしますが、それからは、怪我や鬱病に悩まされ、苦難の道を歩むことになります。が、こちらも語り始めたら小説になってしまいますので、このへんで。

Q4声優仲間でもある同郷の田中敦子さんとの関係について教えてください。

 あっちゃんは、前橋の敷島幼稚園の同級生で、幼馴染ってやつですね。声優業界では必ず、収録の後に打ち上げ(収録前の飲み会は、打ち入りと称します)をやるのですが、そこで判明したことです。

あと、僕には三歳年上の兄がいました。隠してもしょうがないので言いますが、家のことを随分と引きずり、鬱になり、最後は自ら命を絶ってしまいました。兄は前橋で銀行員をやっていて、あっちゃんのご姉妹と同僚でした。ですから現場で会うと、そこら辺を含めた地元話でよく盛り上がりました。おまけに、あっちゃんの息子さんは、僕が講師をしていた、「東京アナウンスアカデミー」での教え子でもあります。うん、なにかと縁がありますね、僕の妻も、あだ名が「あっちゃん」で同じですし、はは。

Q5現在のお仕事の内容、今後の抱負などをお聞かせください。
(芸名の漢字表記を「古澤徹」から「古澤融」に変更した理由も合わせて)

 日本の芸能界の困るところは、事務所の力が強すぎることです。フリーとなってからは仕事は激減し、ディズニーランド関係の持ち役ナレや、過去アニメの持ち役のゲーム音声の収録が主となっています。先輩、後輩、ご同輩、ナレーション等の仕事がございましたら、なにとぞ、ご紹介をお願いいたします(*´▽`*)。

 そうそう、フリーになった経緯をお話ししましょう。
前述しましたが、大怪我を何度か経験してます。劇団仲間時代には、やはり落下事故で顎を強打し、大道具、照明機材などの重い道具(30キロ、40キロなんてざらですから)を持ちすぎて両肩を脱臼、膝の怪我と相まって、全身のバランスが大きく崩れ、ある日、喋れなくなってしまいました。後から判明したことですが、バランスの崩れが、舌を支える舌骨筋群の癒着や緊張を招き、声帯や舌が持ち上がったままの状態――専門用語でハイラリンクスと言います――になってしまったのです。仕事や家庭でいろいろあった時期でしたから、僕はてっきり精神的な病だと思い込んでしまい、絶望しているうちに、本当に大鬱病になってしまいました。鬱病は三年で寛解しますが、今度は沖縄で潜水をしていて、外リンパ漏という大けがを左耳に負ってしまいます。僕は、当時所属していたケンユウオフィスを離れ、声優講師をしながら自分と向き合いました。なぜ、こんなに怪我が多いのか? どうやったら、ハイラリンクスを治すことができるのか?

 答えは、怪我が多いこと自体が、家庭環境に由来する神経症なのだということ。ハイラリンクスを治してくれる医者はいない、自分で自分を治すしかない、ということでした。幸い妻が、ピラティスとヨガのインストラクターですので、彼女の意見も聞いて、ハイラリンクスを治す体操を考案し、克服出来ました。克服した記念に、自分で自分に名前を与えようと思い、本名の徹を、融に変えました。融和の融、そして、(一説には)光源氏のモデルである・みなもとのとおるをイメージして名付けました。

 今は、円演劇研究所時代の先輩・玉野井直樹さんが主宰する、「五色の花」が来年5月に上演する、「12人の怒れる男/12人の浮かれる男 連続公演(仮題)」の稽古にすべてをかけています。上演場所は、の俳優・石田登星とうせい先輩のご自宅の地下にあるスタジオ(うらやましい!)です。

 映画で有名になったシリアスな名作と、それをパロディー化した筒井康隆さんの作品の2作に、連続出演します。僕は、怒れる男の方は3号、浮かれる男の方は4号を演じます。一作だけでも役作りは大変なのに、全く違うキャラクター二人を同時に作らないといけないなんて、やりがいはありますが、超難問です。

 コロナのせいで、上演日が変更になる可能性もありますので、来年になって、予定の全てが確定したら、こちらのホームページで是非、告知させてください。

Q6最後に渋高生へのメッセージをお願いします。

森光子さんが生前、仰っていた話なんですが、あの「放浪記」の上演中、当時、税金問題で頭を悩ませていた森さんは、なにかの拍子に、その問題に心を奪われ、ずっと考え続けていたそうです。で、はっと気が付いたら、いつの間にか――なんの問題もなく――一幕が終わっていたそうです。そこまではいきませんが、僕にも、そんな経験があります。なにが言いたいのかというと、森さんの自我が税金のことを考えていた間、演技をしていたのは一体誰か? ということです。

その誰かが真我です。真我は惟、現実に即して行動するのみです。悩みもありません。僕はそのことを俳優として知っていましたから、どんなに困難なことがあっても、絶望しても、兄と違い死を選択しませんでした。自我はただのクレーマーです。人生を楽しんでください。

【超略歴】と【代表作】

1962年 誕生 4歳のとき、社宅脇の下水施設のコンクリに座っていて、突然、自我に目覚める。1978年 渋川高等学校 入学
 酒と、他校生との喧嘩を経験。榛嶺祭の夜に、当時渋川にあった映画館で深夜、先輩と日活ロマンポルノを鑑賞。期待とは裏腹に、人生の悲哀を勉強するはめに。
1992年 「勇者警察ジェイデッカー」で声優デビュー。

 

 

 

 

 

ジェイデッカーで共演した置鮎龍太郎と。「名探偵コナン」の現場にて》

 

 僕を採用してくださった音響監督は、クリストファー・リー(ドラキュラ伯爵)の吹き替えでで一世を風靡した千葉耕市さん(故人)。名監督でした。

以下、僕の代表作です。

「サイボーグくろちゃん」ドクター剛役。初期のガンダムシリーズの音響監督、松浦典良さん(故人)が音響監督。人格も演出も最高の音響監督でした。鬱で廃人同様だった僕を、励ましながら使ってくださった。大恩人です。

「眠れる森の美女」王子役。ニュープリントになるタイミングで、新王子としてキャスティングされました。後から聞くと、有名声優たちにオーディションをしても決まらず、無名の僕にその機会が与えられたんだそうです。収録の後に聞いてよかったと思いました。収録前に聞いていたら、緊張していい演技ができなかったでしょうから。

「ポカホンタス」ジョン・スミス役。王子役でディズニー声優になった勢いでキャスティングされました。ヒロインの相手役ですが、ヒロインのポカホンタスが、あまりにも五輪真弓さんそっくりで、ちょっとズッコケました。

「Mr.インクレディブル」ボブ役。ただし、ディズニーランドとゲーム限定。劇場版は、僕から三浦友和さんに変更、あーあと思いました。「トイストーリー」では、山寺宏一さんから、急遽、唐沢寿明さんに変更になった前例があったので、驚きはなかったですが、大企業の傲慢みたいなものは哀しく感じました。

「スーパーロボット大戦α」イングラム・プリスケン役。人気ゲームのアニメ化ということで、音響収録スタジオは熱気に溢れていたのですが、アニメの初回を見てがっかりしました――作画がひどすぎて( ´艸`)。以降、収録のモチベーションを維持するのが大変でした。悲しい思い出です。

以上で終わります。ありがとうございました。