☆MIRU・KIKU☆保坂修平さん(平成8年卒)リサイタル開催のお知らせ

『あの人も渋高だったー』No.10 入澤孝一さん(昭和42年卒)高崎健康福祉大学教授 元スケート日本代表ヘッドコーチ

今回は、元スケート日本代表ヘッドコーチである 『入澤孝一さん(昭和42年卒)高崎健康福祉大学保健医療学部教授』にお話をききました。

◇横顔紹介◇

2018年平昌大会で金メダルに輝いた佐藤綾乃選手

 高崎健康福祉大学理学療法学科教授として健康運動指導者養成課程の授業を担当。長く日本のスケートコーチとして、インカレ(日本学生氷上競技大会)、ワールドカップ、冬季五輪等で活躍する選手を指導。このうち冬季五輪では黒岩彰選手が1988年のカルガリ大会500mで銅メダル、黒岩敏幸選手が1992年のアルベールビル大会500mで銀メダル、佐藤綾乃選手が2018年の平昌大会チームパシュートで金メダルと2022年の北京大会チームパシュートで銀メダルを獲得し、3選手を合わせると金、銀、銅のメダルすべてを獲得するという快挙を達成された。令和3年度から群馬県スポーツ協会理事、選手強化委員長も務められている。

1.自然豊かな浅間高原での小・中学校時代

 自然豊かな標高1000mの浅間高原で小中学校を過ごした。高冷な気候の中、冬になると近くの雪が降った山や氷が張った田んぼでスキー、スケートに暗くなるまで興じて、その後の素地ができた。

2.高校時代の思い出

渋川高校の野球部時代

 私の運命は中学1年の時に出会った新任の体育教師を見て決まった。「体育教員、運動が出来てかっこいい」、これが体育教員を決意した動機である。
 渋川高校に進学し、1限目のHRの時に「吾妻郡長野原西中出身の入澤孝一です」と挨拶すると小さな声が聞こえた。「群馬のチベットから来たのか」。さらに、英語の1限目、隣の生徒の英語の辞書にはアンダーラインが満遍なく引いてある。私の辞書は真っ白。こんなカルチャーショックで高校時代がスタートした。
 入学後は野球部に入り毎日真っ暗になるまでボールを追いかけた。しかし、2年進級を前に体育教師の仕事について真剣に考えた末に野球部を退部した。そして立ち上げられたばかりの体操部のマネージャーとして関わることになったが、文武両道を実践している彼らによって、「決められたこと、指示を受けてからの行動」から「自分で考え、話し合い、協力しながら目的に向かって行動する」ということを教えられ、運動一辺倒であった私の意識に大きな変化をもたらしてくれた。また、苦手教科の数学の先生から試験結果を返してもらった際に「入澤はやればできると思っていた」とぼそっと言われ、言葉には人間の心に勇気とやる気を起こさせる力があることを深く感じさせてくれるとともに、教職のすばらしさを認識するきっかけとなった。

3.大学時代

 高校3年の9月、母親の病気が発覚して余命を宣告され進学を悩む時期を過ごす中で、浪人は許される状況ではなく中京大学体育学部に進学した。そして長男としての責任を考え、郷里である浅間高原で教員になることを念頭に専門競技としてスケートを選んだ。
 大学のスケート部員の多くは高校で専門的な競技を行ってきた選手たちばかりだったが、私のように競技経験のない素人の良いところは先入観がないことである。入学と同時の「スポーツ科学講座全10巻」を購入し、授業とは別に帰宅後に独学する中で、トレーニングに対する疑問を先輩に話した。この大学の良いところは上下の区別なく何でも話せ相談に乗ってくれることで、私の好奇心と向学心に目覚めさせてくれる環境がすべて揃っていた。一方、競技選手としては、群馬にスケートの基盤を持っていなかったため愛知県代表として国体に出場していた。

「朝、さわやかな顔で子供たちに接する教員になれ」。卒業時に大学スケート部の監督が送ってくれた言葉を胸に、郷里の嬬恋西中の教員としての生活が始まった。

1975年国体 教員3000m優勝

4.指導者として
 中学ではスケート部の顧問を務めた。教員1年目が終わったスケート部の保護者懇親会でキャベツ農家の保護者から「キャベツだって手間暇かけなければ売りものにはならねえ」と言われ、生徒に対しても手間暇かけて接しようと心に誓った。そして、スケート部ではトレーニングパートナーとして生徒の先頭に立って走り体を動かした。その結果、選手としても国体スケート教員の部で群馬県代表として3度の優勝を成し遂げ、国体スケートでは群馬県初の優勝者になった。

 嬬恋西中時代には妻の「かほり」と知り合って結婚した。器械体操を専門とする体育教師である妻は嬬恋西小のスケートクラブを担当し、スケートを始めるきっかけとなる子供たちの指導や保護者との信頼関係を作ってくれた。

 嬬恋西中で指導したスケート部員の大半が嬬恋高校に進学し、放課後母校の中学でトレーニングをした。今でいう中高一貫指導という言葉の走りになった。「スケートを理由に学業成績を下げない」を合言葉に合宿・試合の合間に教科書を広げながら指導した結果、多くの保護者や地域の協力を得る事が出来た。

 スポーツ医・科学との出会いもこの時期であった。東大の体育研究室(宮下研究室)との連携で年2回体力測定を実施した。トレーニング効果を検証するとともに、選手は研究者から各測定項目について、何故この測定をするのか、測定値がどう変化すればよいのか直接説明を受けた。トレーニングの目的と達成方法が明確にし、選手のモチベーションの向上につながった。

 このあと中高一貫指導の成果が徐々にあらわれ、(昭和51年度)第26回インターハイのスケート競技で嬬恋高校が大会史上初の男女アベック優勝を達成したのをはじめ、毎年全国大会で好成績を収めるとことになった。

1992年アルベールビル大会「橋本聖子選手銅メダル」

 さらに嬬恋高校から大学に進学した選手は、日本代表として世界の舞台で活躍することになった。それもあってか、私自身もJOCから「在外コーチ研修員」に選ばれ、コーチ留学をすることになった。ノルウエースケート連盟が受け入れ先となり、ノルウエー体育大学大学院に籍を置き、ノルウエーチームに同行するとともに各国のナショナルチーム指導者との交流を図る機会を得た。また、ノルウエー選手の体力測定を実施し、日本選手との比較データを得たことも大きな収穫であった。こうした経験が実を結び、帰国後日本ナショナルチームのコーチ・ヘッドコーチとしてカルガリ五輪で1個、アルベールビル五輪で3個のメダル獲得することができた。

 指導者として自分自身に課してきたことは、「可能性を信じて努力すれば目的は達成できる」、「選手に能力・素質がないと指導者が言い出したら、指導者に粘りがなくなってきた危険信号」などなど。こんな言葉を胸に抱きながら日々生徒・選手に向き合ってきた。

5.群馬県スポーツ振興課・学校管理職時代

 学校教員と競技の現場から離れて群馬県教育委員会スポーツ振興課に籍を移した。その間JOCプロジェクト21に1994年から3年間加わり、スポーツ先進国の調査を実施した。この調査結果をもとに競技スポーツ基本計画が策定され、国立スポーツ医科学センターやナショナルトレーニングセンターの設立につながっていった。

「国を代表する競技者は、子供たちのアイドルに相応しい人間性を備えていなければならない。ジュニアからの一貫指導システムはそのコンセプトを実現させるものでなくてはならない」。この理念の実現に向けて、群馬県版の「競技スポーツ推進策」を作成、各種の事業を展開する業務を任されたことが印象に残っている。

 このあと、県教委での勤務から管理職として再び学校現場に戻ったが、スポーツの世界を中心に歩いてきた私にとっては、非常に新鮮であり毎日が感動の連続であった。その中で指導の原点はスポーツの場でも学校教育の場でも共通するものであることも再確認することができた。

6.高崎健康福祉大学での実践

 長野原高校長を定年退職し、高崎健康福祉大学でスケート部を発足させた。その理念は「全員監督・全員コーチ」、「一意専心」。その理念の実現に向けて「自主自律」で「自己のトレーニングを計画作成」し、具体的な達成目標は「毎年自己記録を向上」させ、「国家資格取得すること」とした。この理念を踏まえて、学長には、「世界につながる選手を育成します」と約束したことで、目標に向けた全面的な協力を得る事ができたが、スケート界では伝統も知名度もOB組織もない、0からのスタートで、苦労の連続だった。しかし、その甲斐あって一期生、二期生、三期生と入部してきた選手たちは、毎年自己記録を更新するとともに看護・理学、栄養、教育、情報の各分野で国家資格を取得した。その結果、希望する職業に就職できるようになり、高校の顧問や保護者に評価されるように変化してきた。

2023年1月のインカレ・女子総合優勝

 結果がすべての競技スポーツの世界である。厳しくもやりがいのある挑戦である。文武両道の「武(競技力)」面では、団体としてインカレの総合優勝6回、個人では毎年日本代表としてワールドカップ等で活躍する選手が出ている。「文(学習)」の面でも国家資格取得は当然であり、大学院に進んだ選手が4名にのぼった。また、令和4年度卒業生が東大大学院に進学した。現在スケート連盟の医・科学スタッフに関わっている研究者が3名、その中で博士取得者が1名でている。

 指導者としての原点は、十代の「かっこいい体育の教員」からスタートし、指導者としての在り方を学んだ渋川高校時代にあったと考えている。

7.在校生へのメッセージ

・目標・夢を追い続ける人生を送ってください。

・自分の武器を探し、徹底的に磨くことに情熱を傾けてください。

・できない理由を考えるのではなく、どうしたらできるかを考える人間になってください。

 

【略 歴】
1949年 3月 吾妻郡嬬恋村芦生田生まれ
1964年 3月 吾妻郡長野原町立長野原西中学校卒業
1967年 3月 群馬県立渋川高等学校 卒業
1971年 3月 中京大学体育学部健康教育学科 卒業
1971年 4月 吾妻郡嬬恋西中学校 教諭
1977年 4月 群馬県立嬬恋高校 教諭
1984年 2月 在外コーチ研修1年間(ノルウエー)
1989年 4月 群馬県教育委員会体育課 指導主事(群馬県スポーツ協会)
1992年 4月 同上 上州国体・世界スプリント推進室指導主事
1994年 4月 同上 スポーツ振興課 競技スポーツ係指導主事
1998年 4月 同上 群馬県スポーツ協会競技スポーツ課長
1999年 4月 同上 スポーツ振興課課長補佐(競技スポーツ係長)
2002年 4月 吾妻郡東村立東中学校 教頭
2005年 4月 群馬県立桐生女子高等学校 教頭
2007年 4月 群馬県立長野原高等学校 校長
2009年 10月~ 高崎健康福祉大学理学療法学科 教授