「あの人も渋高だったー」に桑原清幸さん(平成2年卒:公認会計士・税理士)掲載

『あの人も渋高だったー』No.11 針塚 遵さん(昭和50年卒)元裁判官 

今回は、2021年11月に裁判官を定年退官された針塚遵さん(昭和50年卒)にお話をうかがいました。

1.渋高時代の思い出は何でしょうか?

 高校に入学してすぐに感じたのは、勉強が、特に理数系の科目が中学時代よりも格段に難しいということでした。夏までにいくつかの大学の入試問題集を買ってみましたが、どの大学の入試問題もとても難しく、高3までに合格可能なレベルに到達できるのだろうかと焦燥を覚えた記憶があります。

 そうはいっても生来ののんびり屋でしたので、中学時代から始めた剣道を剣道部に所属して続け、また、ギターを弾いたり、レコードを聴いたり、将棋を指したり、プラモデルを作ったりと、趣味の世界を楽しんでいました。そのため、高2の頃までの成績は芳しくなく、先生や親からは、何をしているのかと叱られていました。勉強するためという理由で高2の夏に剣道部を辞めましたが、その後もなかなかやる気が出ませんでした。しかし、そのころ始めたZ会の通信添削と、高3になって受け始めた駿台模試で刺激を受け、また、幾人かの本気モードの友人たちや熱心な先生方からも刺激を受けて、高3時代は寸暇を惜しむように勉強していたことを憶えています。その甲斐あって現役で志望大学に合格することができました。

2.就職と司法試験

 私の大学時代は、社会の中で何かをしようとか、何かになりたいとかいう意識に乏しく、一年間は体作りのためと思ってボート部に所属しましたが、体力的に限界を感じてそこを辞めた後は、悪友たちと遊興三昧で過ごしてしまいました。大学4年になり、たまたま受けていた群馬県庁に合格し、父が是非にというので、都会に馴染めない思いも感じていたこともあって県庁職員になり、5年間勤めました。その間、多くの得難い経験をさせてもらいましたが、はっきりいって給料が安いのが不満で転職を考えるようになり、一応法学部を出たのだから弁護士にでもなろうかと思って県庁を退職し、足かけ3年(正味2年)で司法試験に合格しました。すると裁判官にならないかと勧誘を受けました。若くなかったので裁判官になっても偉くなれないだろうと思いましたが、相談した弁護士からは、「いつでも辞めて弁護士になれるから」と言われて思い切って裁判官になりました。

3.裁判官として

 裁判官に任官してからの30余年は、北は仙台から南は鹿児島までの転勤生活で、思い出すとまるで夢のようです。仕事が忙しい中でも休日には妻子などと任地の近辺をドライブして歩き、多くの思い出ができました。仕事は、主として民事事件を担当し、たくさんの事件に関与して判決や和解をして来ました。少しは世の中の役に立てたのではないかと自負しています。

 中でも特に記憶しているのは、東京地裁商事部にいた2000年秋ころ、債権の現物出資=デット・エクイティ・スワップ(debt equity swap)の許可について運用を変更し、そのことを説明する論文を書いたことです(商事法務2001年3月25日号)。これは、商法学界、法務省、財務省、マスコミなどからも大きな反響があり、当初は批判的だった商法学者も、論争の末にその運用変更を支持してくれるようになり、また、その考え方に基づいた法改正も行われました。これは、喩えて言うと「王様は裸だ」と誰かが言わなければならないことを言ったに過ぎないのですが、その役割を担えたことは私にとって幸福なことだったと思います。当時の商事部内でも激論の末に成立した運用変更であり、そのころの商事部の顔ぶれとともに思い出深いものです。

 退官後の2022年12月、最後の任地であった土浦の弁護士会から依頼されて講演をしたのも、私の仕事ぶりを評価してもらえたものと理解しており、良い思い出になりました。

4.在校生に送る言葉

 十代というのは鍛える時期であり、暗中模索のような日々が続きますが、いつか世の中が見えて来るようになります。その上で感じるのは、ありきたりですが、学校での勉強は無駄にならないということ、ただ、勉強以外で得た知識経験も大切であるということです。何にでも興味を持ち、想像力を働かせて理解を深めようという姿勢を持つことです。そして、早期に自分がどんな人間になりたいのか目標を持った方が良いと思います。私は身近に法曹関係者がいない中で、流れに任せて裁判官になってしまいましたが(後悔はしていませんが)、世の中が複雑なものとなって色々な職業が必要とされ、価値観も多様であることから、多くの大人たちから仕事の話などを聴くということが自分の将来を考える上で有益だろうと思います。

 それと、これもありきたりですが、学校時代の友人というのは一生の付き合いになるということです。身近の馬鹿なヤツと思っている友人が、社会に出てそれなりの人物になり頼もしい存在になる、あるいは話相手や相談相手になるということがありますので、誰とでも親しくなっておくという心がけは望ましいことと思います。

 先にこの欄で紹介されているキリンに勤めた狩野住夫君は渋高でクラスメートでしたが、身も心もスケールの大きい男とは思っていたものの、これほどの大物になるとは予想していませんでした。ほかにも優れた業績を残している同級生は大勢いらっしゃいます。流れに任せて生きてきた私が言える立場ではありませんが、皆さんには挫折を怖れずに夢に向かって前進してほしいと思います。「男子、三日会わざれば刮目してみるべし」とは、志を持つ男子であることが前提です。皆さんがお互いに予想外の活躍をする日を楽しみにしています。

【略 歴】
1956年11月 渋川市中村生まれ
1972年 3月 渋川市立渋川中学校卒業
1975年 3月 群馬県立渋川高等学校卒業
1979年 3月 東京大学法学部卒業
  同 年 4月 群馬県庁奉職
1984年 3月 同退職
1986年11月 司法試験合格
1987年 4月 司法修習生になる
1989年 4月 裁判官に任官
2021年11月 裁判官を退官

現在 大正大学法律顧問