☆MIRU・KIKU☆保坂修平さん(平成8年卒)リサイタル開催のお知らせ

『あの人も渋高だったー』No.12 廣橋賢一さん(昭和45年卒)カーリットホールディングス 元代表取締役社長

今回は、カーリットホールディングスで代表取締役社長を務められました、昭和45年卒の廣橋賢一さんにお話をうかがいました。

高校生の頃

♪遠い夢 すてきれずに 故郷をすてた♪

♪別離より 悲しみより 憧れは強く♪

 視聴者からのメッセージをもとに谷村新司さんが作詞したという「サライ」の一節である。この曲を聴くと、今から54年ほど前の情景が思い浮かぶ。渋高生であった私は故郷を出ることを夢見ていた。

 当時の家庭環境や周囲の雰囲気などから卒業後は就職するものと親が考えることはごく自然なことだった。私はというと、実業の世界へ身を置くのはもう少し猶予して欲しいと願っていた。だからといって、成績の方は、散々だった。安田講堂事件が報じられるなど、騒然とした落ち着きのない雰囲気が漂っていた時だった。閉塞感の中、一時的でもいいから「今の状況から抜け出したい」との思いは少しずつ強くなっていった。自転車通学から電車通学に切り変えていた私は、下校時、渋川駅からもいつも乗る電車の中にいた。行先は上野だった。下車駅である八木原まではたったの一駅であるが、「このまま行けば上野に着くんだ」との思いが浮かんでは消えた。この頃から東京への憧れが芽生えていた。
 

それから一年後、私は、上野行きの電車に乗っていた。

 上京を許された私は、水を得た魚だった。潰しが効くと言われた経済学部に潜り込み、学業はそっちのけでサークル活動とアルバイトに精を出していた。楽しかった4年間はあっという間に過ぎ去り、仲間は就職するし、遊んでいるわけにもいかないので、何とか会社に滑り込み、それでも、与えられた仕事が性に合っていたからか、帰宅が遅くなる日が続いても、失敗を重ねても、それはそれでやりがいを感じられる充実した日々だった。そして、時は過ぎ、気が付けば社長になっていた。

フォークソング研究会

バンドの仲間達 四年生時の演奏会、右から2人目が筆者

 大学時代4年間席を置いたサークルの名称である。60年代のアメリカンフォークソングをアコースティックギターやウッドベースを使用楽器にシングアウト形式で合唱する同好会だった。もっとも、私の入会時には、シングアウト形式を基本とはしていたが、使用楽器にも、歌う形式にも制限はなくなっていた。

 私が入会を決めたのは、先輩たちの力強く美しいハーモニーに身震いするほどの感動を覚えたからである。その迫力は生まれて初めて経験するものだった。

 会員数は50人ほどであり同好会としては大所帯だった。駿河台の学内に練習場所を確保することが困難であったため週一回の練習場所は武道館のある北の丸公園の一角だった。定期演奏会や演奏旅行、夏合宿などもありそれなりに活動的なサークルだった。

 三年生になろうとする時、新たなアパートを探していた私に「俺のアパートの隣室が空いたから、来るか」と先輩に誘われ引っ越した。それから卒業するまでの2年間は、まさに青春を謳歌した時代と言っていいかも知れない。入れ替わり立ち代わり、誰彼となく出入する部屋となった。ひどい時には、6畳一間に、数人が雑魚寝することもあった。まるで、梁山泊ようだと勝手に思ったりもした。4人でバンドを結成する話合いをしたのもこの部屋であったし、練習もした。卒業記念に4年生15人だけのフェアウェルコンサートをやろうと企画したのもこの部屋だった。

 ひとつの楽曲を、同じ時間と空間の中で共有することで生まれる不思議な一体感を味わうことができた4年間だった。バンドを組んだ4人とは本当に濃密な時間を過ごすことができた。歌を通じての仲間との出会い感謝である。

サラリーマン生活46年

 配属は経理部だった。大学での選択科目「簿記」に多少の興味があったに過ぎない。花形部署と言えば「営業」であったかも知れないが、あまり興味はなかった。配属後、ソロバンが全く使えないことに気づいた。職場には今日のような電卓もパソコンもなかった。先輩たちのソロバンを弾く音の大きさと速さに圧倒され続けた。ひどいソロバンの使い手であったが、小型の電卓が登場したことで救われた。

 入社2年前の第1次オイルショックの影響はまだ色濃く残っていて、会社の資金繰りも楽とは言えない時代だった。この年、経理部の中に資金の調達・運用を専門する財務課が新設された。営業が回収してきた手形の割引、借入や返済をタイムリーに行うのが主な業務である。私のサラリーマン生活はここからスタートした。

 経理部での前半最後の仕事は、1989(平成元)年4月に導入された消費税への対応だった。その2年後、私は、工場勤務を命じられ生まれ育った群馬で5年間を過ごすことになる。

 モノづくりをする会社に入社しながら、生産現場を知らなかった私にとって、工場勤務は貴重な経験だった。資材調達部門では、各製造工程で必要とされる材料や価格を知ることができた。これは後に本社の資材部長を命じられた時に役立った。出荷業務の現場では、製品がお客様のところへ届くまでの流れや運送業者の手配を通じて売上原価に占める物流コストの大きさを肌で感じることができた。

 原価計算の実務では、製品原価を構成する原材料の使用割合や価格、製造に必要とされる人員や賃率、そして経費に占める減価償却費の割合などを学ぶことができた。製造原価が、製造会社の損益計算において大きな割合を占めていると知ったのは本社の経理部に戻ってからのことである。工場実務を経験したことで、営業部門の損益の中身が見えるようになり、原価分析を通じて改善すべき点を明確にすることができた。

 工場勤務を経験させてもらったことに最も感謝したのは、しばらく経って、経営に携わるようになってからである。

 サラリーマン生活の折り返しも経理部で迎え、後半には、決算書、有価証券報告書、法人税申告書の作成、さらには、持株会社設立や増資などの仕事に携わることになる。

 

筆者近影

“遊びをせんとや生まれけむ”

― 渋高生へのメッセージに代えて  ―

 2021年6月、相談役を退任し、サラリーマン生活に終止符を打った。生をうけてからの70年間、とりわけ、学生時代やサラリーマン時代は、目の前のことに夢中になって取り組んできた。「順風満帆」だったわけでもなく「禍福は糾える縄の如し」を身をもって実感してきた。「捲土重来」を期したことあった。それでも何とかやってこられたのは多くの素晴らしい人たちとの出会いがあったからに他ならない。その時々で様々な形で支えてもらってきた。同窓生や先生、同僚や上司、そして多くの仲間たちに心から感謝している。多くの人たちのさりげないアドバイスや示唆に富む言葉が私の人生の水先案内をしてくれた。今もそうした人たちに支えられて時を刻んでいる。

 私は、山の頂や飛行機の窓から下界を眺めるのが好きだ。自分がちっぽけな存在に感じられ、今抱えている問題も取るに足らないことに思えたりする。数は少ないが、海外旅行も私に影響を与えたものの一つだ。アメリカ西海岸の空気感や先進性、ヨーロッパの中世の気配漂う美しい街並みに出会った時の感動は今も忘れない。

 柔道、写真、テニス、スキー、山登り、ギターなど色んなものに手を出して来たが、長続きしなかった。「継続は力なり」と言い聞かせてきたが、モノにはならなかった。唯一、現在も続いているのがゴルフである。きっかけは、会社の先輩の「来月、ゴルフ場に行くぞ。練習しておけ」の一言だった。30歳を過ぎた頃のことだった。妻子がまどろむ日曜日の早朝、先輩の中古クラブを2~3本持って多摩川の河川敷あった練習場に渋々出かけた。社宅住いで、子育て中でもあり、経済的にも楽ではなかった。あまり気が進まず始めたゴルフだったが、その後のサラリーマン人生で大いに役立つことになろうとは全く予想していなっかった。いまでも私の大きな楽しみのひとつであり生活に彩りを添えてくれている。

 青空の下、芝生を踏んでのラウンドは心地良い。ゴルフ場に週に一度は足を運ぶという90歳近い方とご一緒するこがある。日焼けした顔から白い歯を覗かせながら「プレイ代を支払うというより、健康を買いに来ているんだよ」おっしゃり、颯爽とプレイしている。その姿勢に、いつも刺激を受けている。ゴルフ仲間は、「この大先達を見習うには、いの一番に健康であること、次に自由になる時間を確保できること、そして、多少の経済力が必要だ」と言う。同感である。

 健康であることは、自分が夢中になれる仕事に集中する上でも余暇を楽しむためにも重要である。しかし、若い時には気づかないものである。工場勤務になって、3年が経った43歳の時、一過性の脳梗塞に見舞われたことがある。幸いにも一週間程度の入院で済んだが、この時になって、やっと、健康管理の大切さに気づかされたものである。

 サラリーマン生活を終えてからの定期健診で担当医から「あれから30年、よく持ったねえ」と言ってもらえた時は嬉しかった。自分でも頑張ってくれた体に感謝している。現在でも、頭の先から足の先まで5本の指では数切れない担当医に診てもらっている有り様だか、ゴルフを楽しむには差支えはない。

 今は、幼稚園児がスマホでゲームを楽しむ時代である。生まれながらにしてデジタルの世界に身を置いている今の高校生たちと憧れの彼女に電話するにも10円玉を握りしめて、公衆電話へ走らなければならなかった私たちとでは環境が様変わりしている。

 私たちの時代もそうであったように、環境が変わっても、子どもたちは、気に入った遊びを見つけては、時の経つも忘れて夢中になって遊び続ける。

 サラリーマン生活も終点が見え始めたころ、“遊びをせんとや生まれけむ”という言葉がふと浮かんできた。「私たちには生まれながらにして遊びたい、戯れたいという精神が宿っていており、それは大人になってからも変わらない」という平安時代の精神に惹かれていった。「遊ぶ」とは予期しない世界の現われに戸惑い、驚くとともに、そうした予期しない偶然と戯れることだという。

 私の学生時代やサラリーマン人生は、まさに「目の前のことに時が経つのも忘れて夢中になって取り組んできた」結果、「予期しなかった世界の出現に戸惑い驚く」ことの連続だったのではなかったかと思うようになった。目の前の課題が解決すると、次の課題が現れる。新たな課題に全力で取り組めるということは、新しい“遊びを”見つけたことに他ならない。

仕事も趣味も、楽しく夢中になれるものに出会えたら幸せだ。

これからも“遊びをせんとや生まれけむ”の精神を心に刻んで過ごして行こうと思う。

以上

【略 歴】
1951年 7月 北群馬郡駒寄村生まれ
1967年 3月 北群馬郡吉岡村立駒寄中学校卒業
1970年 3月 群馬県立渋川高等学校卒業
1975年 3月 中央大学経済学部卒業
1975年 4月 日本カーリット(株)入社
2006年 6月 取締役経理部長
2012年 6月 取締役兼常務執行役員管理本部長
2013年10月 持株会社「カーリットホールディングス(株)」設立
         当社取締役兼常務執行役員、人事部、総務部、秘書室、財務部、
         法務部担当
2016年 6月 当社代表取締役社長
2020年 6月 相談役
2021年 6月 退任