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『あの人も渋高だった―』No.6 町田泰則さん

好きなこと、おもしろいと思うことを思う存分やりましょう!

 名古屋大学客員教授・名誉教授 町田泰則(まちだやすのり)さん

  シロイロナズナとタバコを用いて、植物の細胞分裂や細胞分化及び形作りの仕組みを分子のレベルから研究している。これらの業績により、2010年アメリカ科学振興協会(AAAS)のフェローに選ばれた。その後、植物細胞に関する数々の研究により日本植物学会学術賞(2013年)、日本植物生理学会賞(2015年)、日本植物学会大賞(2020年)を受賞している。名大理学部教授、京大理学部教授を経て再度名大理学部教授を務めたあと、現在名大理学部客員教授・名誉教授。

Q.小学校時代長く休学したとのことですが、大変でしたね。

尾池邦子先生. 2012年10月19日(母の葬儀にて)

尾池邦子先生. 2012年10月19日(母の葬儀にて)

私は病気で小学5年の9月から6年の終わりまで1年8カ月間休学しました。大変辛かったです。
学校の規則ですと2年間の休学になるはずだったのですが、当時学級担任だった尾池邦子先生のご配慮で1年間の休学で済みました。尾池先生は入院中も時々見舞いに来てベッドわきで算数などを教えて下さったほか、「これを読んでね」とたくさんの本を買ってきて下さいました。また、私が長い休学で精神的に不安定な時にも親身になってお話に乗って下さいました。
    中学入学後には別の中学で先生をしていた邦子先生のご主人からほかの友達とともに週に1度英語を教えていただきました。その後も、先生ご夫妻には私の結婚式の媒酌人を務めていただいたほか、私の母が亡くなった時には邦子先生が弔問に訪れて下さいました。先生ご夫妻、とりわけ邦子先生無くしては今の私は無かったも同然と思っています。

Q.高校時代の思い出は?

 高校時代はのんびりした生活を過ごしていましたが、生徒会の副会長を務めたことが思い出に残っています。と言うのも、当時はいわゆる70年闘争の前夜で“学園改革”を求めることをスローガンに掲げた紛争の嵐が地方の高校にも吹き始めつつあり、渋川高校でも関係する演説会があったと記憶しています。そうした中で、事情があって辞任した生徒会長に代わって、私を含む2人の副会長が連携して生徒会を切り盛りし何とか乗り切ることが出来、よかったと思っています。

Q.分子生物学を志すことになったきっかけは?

 私は小学校の頃から理科が好きで、ラジオの組み立てや模型作りに夢中になり将来ロボット博士になろうと思ったほどですが、途中からロボット博士の夢を追うより生物の道に進んでみようと思うようになり、1968年に一浪して千葉大理学部生物学科に入りました。そして、大学2年になって専門性の高い授業が始まる中で、遺伝子であるDNA分子の性質から生命現象を説明できる分子生物学に興味を持ち、その中の分子遺伝学とDNAの分子構造の2つに関する勉強にいそしみました。

    大学卒業後は、都立大研究生を経てより研究環境に恵まれた名大大学院に1年浪人した末に合格。国際的に通用する日本の唯一の分子生物学者と言ってもよい岡崎令治先生の研究室に運よく入ることが出来ました。この岡崎研究室が取り組んでいた「遺伝子DNAに関する不連続的複製機構」の研究は、岡崎令治先生が白血病のため45歳で亡くなられた時には大きな困難に直面しましたが、夫人の恒子先生が研究を大きく発展させて学問上優れた成果を挙げ、昨年度文化勲章を受章されました。(この遺伝子DNAに関する岡崎先生の研究成果は高校の生物教科書に掲載されています。)しかし、こうした中、我々研究室の若手はこの後どういう研究が出来るのかという問いを各々突き付けられ、私は思い切って米国留学を決断しました。

Q.その米国留学での成果、印象に残っていることは何ですか?

 1979年秋、ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校に妻とともに留学しました。そして、優秀な日本人研究者として知られた大坪栄一先生の研究室に入り、トランスポゾン(染色体の間を動き回るDNA因子)に関する研究に打ち込みました。そして、私達は、トランスポゾンが細胞の状態によっては動かなくなることに大変興味を惹かれ、3年間アメリカを旅行することもなくひたすら研究しました。
    その結果、トランスポゾンが動く仕組みについて大きな成果を挙げることが出来、分子生物学分野で評価の高い専門誌に論文を発表することが出来ました。(このトランスポゾンの発見者は女性のトウモロコシの遺伝学者で、1983年81歳の時にノーベル生理学・医学賞を受賞しています。)
 ところで、私たちが住んでいたニューヨーク近郊のロングアイランドはスコット・フィッツジェラルドの有名な小説『華麗なるギャツビー』の舞台としても知られた瀟洒な住宅地で、私たちは留学中、風光明媚な四季を楽しみました。実は、私の祖父母は1928年に日本に帰国したものの元々カリフォルニア移民で、母は現地で生まれました。アメリカは私にとってゆかりの地でもあったのです。

Q.現在の研究の現状、そして今後の展望などをお話頂けますか?

 1982年に私はつくば市の農水省植物ウイルス研究所の研究員として帰国しました。条件は、植物を使って自由な研究をしてもよいということでした。自分自身で全てを決めることができるチャンスが巡ってきたと思いました。

    研究テーマは植物の細胞分裂と細胞分化及び形作りの仕組みで、2年後に名大理学部の助手として異動したあと今日に至るまでその研究を続けています。当時の担当教授は温厚な方でほとんど全てについて私と妻の共同研究に任せてくれました。
    この間成し遂げた主な研究は3つで、このうち植物細胞分裂の研究の成果では米国科学振興協会のフェローに選出されました。また、高効率の光合成を支える扁平で左右対称の植物の葉の形作りの研究では日本植物学会大賞を受賞することができました。

 現在はこの植物の葉の遺伝子の研究を更に究めようと続けているほか、その基礎知識をバイオテクノロジーに応用してウイルス病に強い作物を作り出す研究にも外部の企業研究者と連携して取り組んでいます。

Q.分子生物学の研究に励まれていた折にノーベル賞受賞者の大隅良典教授と知り合ったとのことですが、そのいきさつを話してください。

 私たち夫婦が米国留学に出立する直前に、現地の研究活動の先輩である大隅さんご夫妻の所へ挨拶に行ったのが最初の出会いです(大隅夫人と私の妻が友人どうしでした)。その席で、大隈さんは、私が師事していた名大の岡崎令治・恒子研究室での研究はいかがですかと聞かれたので、岡崎研では職員から大学院生までが一丸となって、DNAの不連続的複製の研究をしていますと答えました。これに対し、彼は研究者が一丸となって進める研究スタイルとは異なる考え方を述べたように記憶しています。若手はもっと自由にテーマを選び、大いに悩む方がよいと考えていたのでしょうか。また、 ニューヨークの生活について、「危険な場所もあるが、とても素晴らしい」と話してくれ、『ニューヨーク 25 時』という題のガイドブックをプレゼントしてくれました。これは今でも私の書棚にあります。

 それからおよそ 40年後の2016年9月末、私は植物学会の用件で大隈さんの携帯に電話を入れました。しかし、何回試みてもつながりませんでした。お忙しいのかなと思い、その時にはあまり深く考えずに電話を切ったのですが、それから一週間ほどして、彼がノーベル生理学・医学賞を受賞したことを知り、そうか、この件で忙しかったのだと思うと同時に、感激がジワジワと体中に広がりました。そこでお祝いにと、日本酒をこよなく愛する大隅先生に地元の銘酒『空』の一升瓶を贈りました。


2017年大隈良典さんのノーベル生理学・医学賞受賞祝賀会にて

Q.大隅教授の研究はどう評価されているのですか?

 大隅さんは酵母を研究材料とした分子遺伝学・細胞生物学者です。受賞理由は、「オートファジー(細胞の自食作用)の仕組みの解明」というもので、生物界に普遍的に存在している細胞内の物質分解の仕組みの発見が生命科学全体に対する偉大な貢献であると評価されたのです。最近の論文では、パーキンソン病やクローン病(潰瘍性大腸炎)の原因が、オートファジーと関連している可能性も指摘されるようになったので、彼の研究の奥行きの深さを感じます。

Q.最後に在校生へのメッセージがあればお願いします。

  好きなこと、おもしろいと思うことを思う存分やりましょう!

【略歴】
1948年 群馬県渋川市生まれ
1964年 渋川市立北中学校卒業
1967年 群馬県立渋川高校卒業
1968年 千葉大学理学部入学
1972年 千葉大学理学部卒業
1973年 名古屋大学大学院理学研究科(分子生物学専攻)入学
1979年 理学博士
1979年 ニューヨーク州立大学 博士研究員
1982年 農林水産省植物ウイルス研究所 研究員
1984年 名古屋大学理学部 助手
1987年 名古屋大学理学部 助教授
1989年 名古屋大学理学部・大学院理学研究科 教授
1997年 京都大学理学部・大学院理学研究科 教授
1999年 名古屋大学理学部・大学院理学研究科 教授
2012年 名古屋大学理学部・大学院理学研究科 定年退職
2012年 名古屋大学理学部 特任教授、名誉教授
2016年 名古屋大学理学部 シニアリサーチフェロー、客員教授・名誉教授
現在に至る