桑島 秀樹( 昭和63年卒)さん
広島大学大学院人間社会科学研究科及び総合科学部・教授/美学者
- 「美学」の研究者/大学教員になった経緯・原点
父も母も渋川の金島地区で育ち、渋高・渋女を出てそのまま地元の市役所に就職した口です。両親にも大学進学への思いはあったはず。ですが、当時の時代状況あるいは社会風潮がそれを許さなかったのでしょう。伯父・伯母たち従兄・従姉たちも同様だったので、高校卒業までの私にとって、大学とか研究とか、そうしたものの内実は決して身近で自明のものではありませんでした。いわゆる私は、その世代になって初めて高等教育を受けた「ファスト・ジェネレーション」だったわけです。
ただ、このような文化資本の欠如こそ、逆に「美学者」として生きるための独自の感性を鍛えあげる時間と経験を与えてくれたと思っています。少年時代から、近所の里山や小川、田んぼや畑の畦が遊び場でした。ドジョウやサワガニと戯れつつ、ときに古代の土器片や古銭など拾うのが楽しみでした。新緑のきらめき、野鳥のさえずり、山のにおい、土や石の手触り、湧き水の冷たさ、落葉を踏む音、風の声、すべての天地自然へと五感をいっぱいに開き、それらを深く味わったのです。このような原体験が、いま大学教員として学生さんや一般社会人に講じているaesthetics、すなわち「感性(的認識)の学」たる「美学」の基礎となっているのだと理解しています。
※私の原風景としての「金島物語」については、拙著『司馬遼太郎 旅する感性』の最終章(補章)をお読みください。
- 渋高時代の思い出、印象深い出来事
正門向かいの小学校、裏手の坂下に見える中学校を出たので、渋高はなじみのある学校でした。詰襟学生服の金ボタンが「北毛の雄」の誇りを象徴していたように思います。印象深いのは、旧制中学以来のバンカラ気質と詩人・佐藤春夫作詞の校歌でしょうか。私も、1980年代後半の北関東男子高生のご多分にもれず、短ラン(裏地はチェック柄)に、やや細身のボンタンズボン(裾はダブル)。上履きは踵をつぶし、3年間洗わない。そうそう、沼高との定期選(スポーツ対抗戦)の総決起集会では、気合いの入った応援団が、校歌斉唱の際――出だしの「自由の子」のあたりで――ド~ンドドンと太鼓の合いの手が入る。さらに歌が大団円に達すると全校生徒が体育館の壇上にわれ先にと攀じ登り、肩を組んで歌う。あれは祭典感満載でした。高校生で文学に目覚めた私は、佐藤春夫が「自由の子/民主の民ぞ/新しき文化の国に」と声高らかに自由と文化を謳い、「君見よや」と呼びかける校歌にすっかりしびれてしまったのでした(たぶん同窓の皆さんの多くもそうでしょう)。
かくいう渋高時代の私はややミーハーでもあり、「硬式テニス同好会」を創設したメンバーのひとりでした。村上龍『テニスボーイの憂鬱』なんて読む時代でしたから。古典の阿部三郎先生が顧問で、私たちは坂東橋下の利根川河川敷コートまで、からっ風を受けながら、片道8キロ強、毎日自転車を駆って出向いておりました。なので、ぜんぜんロマンチックでも優雅でもなかったわけです。このサークルでは、榛嶺祭(文化祭)の仮装行列に参加し、女装して街を練り歩く体験もしました。また、女子学生客を当て込んで水ヨーヨー釣りの店を開いたこともありました。
- 現在の仕事の方向性、未来への思い
一年間の新前橋・群馬英数学館での浪人生活の後、大阪大学文学部へ進学します。英数学館でも前高・前女、高高・高女の優秀な皆さんがクラスメイトにいて、タバコも吸うけれど、ボブ・グリーンのエッセイなんて読む連中にカルチャーショックを受けました。その後、当時論壇で鋭い文明批評を展開し、しばしば入試問題にも登場していた劇作家で美学者の山崎正和を知ります。彼がいるという理由で、親類縁者もない国立大最大の「美学科」をもつ関西の大学へと乗り込むことになったわけです。けっきょく演劇学の山崎ゼミを選択する自信はなく、お隣の「美学・文芸学」(神林恒道、上倉庸敬、森谷宇一が指導)専攻に進みました。そこで幼き日から関心のあった「自然」や「風景」の美学をテーマに研究を進めることに。結果、大阪で丸15年、そして広島で丸18年の学究生活となっているわけです。
いまの主な研究関心は、1)野趣に富む辺境の大自然や歴史上の超想像的な大事件を把握する概念としての「崇高」の研究、2)その「崇高」を近代最初に理論化した18世紀のイギリス・アイルランドの感性文化・芸術文化(特に、崇高美学の理論家かつ政治思想家エドマンド・バーク)の研究、3)風景・故郷・ノスタルジーをめぐる感性の研究です。ことにアイルランドは、私にとって外国での第二の故郷のような場所となっています。妻と娘たちとの思い出もたくさん詰まっています。
今後も、魂をこめた書物というかたちで、故郷・渋川で練りあげた感性を信じ、独自の「美学」を紡ぎだすことで、新たな時代の文化創造の道標をしめせればと思っています。
※私と美学とアイルランドの関係については、拙著『生と死のケルト美学』をお読みください。個人的には、未来を生きる娘たちへのラブレターでもあります。
現役渋高生へのメッセージ
勤務先・広島大学の新入生諸君にもいうのですが、《the radical recurring point(桑島の造語:「いつでもなんどでも立ち返ることのできる根っことしての原点」)を心に持て!》ということです。その「根っこ」がまだ見つかっていないなら、もがきあえぎつつ探りあてればよいのです。異郷への旅、コロナ禍で現実にはなかなか叶わなければ、書物への旅、あるいは、博物館や美術館の展示物への旅、こうした様々な旅こそ、異質なもの=他者との接触機会であり、キミたちをきっと新しい自己発見あるいは自己変容へと導いてくれるはず。シブタカ生諸君ヨ、イマ門ヲ出テ、何ヲカ見ム?
※《the radical recurring point》については、拙著『崇高の美学』に出てきます。私のこの処女作は現在「品切れ/重版未定」ですが、公立図書館などに入っています。群馬にはじまり、広島で終わる本です。
【略歴:桑島秀樹(くわじま ひでき)】
1970年3月 渋川市金井生まれ
1985年3月 渋川市立北中学校卒業
1988年3月 群馬県立渋川高等学校普通科卒業
1989年4月 大阪大学文学部入学
1993年3月 大阪大学文学部美学科(美学・文芸学)卒業
1996年3月 大阪大学大学院文学研究科(芸術学・美学)博士課程前期修了
1999年9月 国際ロータリー財団奨学生(群馬・新潟地区選出)として米国シカゴ(イリノイ州 オークパーク)短期派遣(1999年12月まで)
2001年3月 大阪大学大学院文学研究科(芸術学・美学)博士課程後期単位取得後退学
2001年4月 日本学術振興会・特別研究員PD(イギリス美学)(2004年3月まで)
2004年3月 大阪大学大学院文学研究科より、博士(文学)号取得
2004年4月 広島大学総合科学部・助教授(美学芸術学、芸術文化論、文化創造論等)
2006年4月 広島大学大学院総合科学研究科・助教授(2007年4月より「准教授」と改名)
2011年4月 アイルランド共和国Trinity College, Dublin(歴史学)・客員研究員としてダブリン で在外研究(2012年3月まで)
2016年2月 広島大学大学院総合科学研究科・教授(20年3月まで)
2020年4月 広島大学大学院人間社会科学研究科人間総合科学プログラム・教授/副プログラム長(2022年4月 現在に至る)
※なお、2000年以降、大阪工業大学(工、知財)、甲南大学(文)、島根大学(法文)、大阪大学(文)、京都大学(経)等で非常勤講師。美学会、日本イギリス哲学会、日本18世紀学会、日本アイルランド協会、広島芸術学会、広島・アイルランド交流会等で役員(委員・理事等)。東広島市文化懇話会・元座長、東広島市立美術館協議会・会長。
【主な出版図書】
『崇高の美学』(単著)講談社選書メチエ、2008年5月。
『生と死のケルト美学:アイルランド映画に読むヨーロッパ文化の古層』(単著)法政大学出版局、2016年9月。※第14回「木村重信民族藝術学会賞」受賞
『バーク読本:〈保守主義の父〉再考のために』(共編著)昭和堂、2017年8月。
『司馬遼太郎 旅する感性』(単著)世界思想社、2020年3月。
【業績一覧リンク】
・広島大学・研究者総覧:
桑島 秀樹 (大学院人間社会科学研究科) (hiroshima-u.ac.jp)
・科学技術振興機構(JST)Researchmap:
桑島 秀樹 (Hideki Kuwajima) – 広島大学 大学院人間社会科学研究科・人間総合科学プログラム(大学院改組による) 教授(2020年4月⁻ :副プログラム長) – 経歴 – researchmap